We shall overcome- 沖縄と世界史-

琉球大学西洋近現代史(池上大祐)研究室の教育・研究活動の記録ブログです。アメリカと太平洋島嶼地域との関係について、(脱)・(新)・(核の)植民地主義の観点から研究しています。また、沖縄で西洋史・世界史を学ぶ意義・方法について歴史教育実践を通じて追求していく予定です。なお本ブログの記事は、あくまでわたくし個人の意見であり、所属先の方針や考えを代表するものではありません。

3・11

7年前の3・11は、母校である福岡大学で、翌4月から発足する予定の研究所(福岡・東アジア・地域共生研究所)の立ち上げ準備業務を担当していたときであった。午後3時過ぎ頃のネットニュースで、茨城県沖で地震発生→東北で地震発生と2段階で報道を見た記憶がある。その頃東京出張中の方々(先生や後輩)の安否確認をなんとかメールでおこなった(そのとき、私はまだツイッターというものをあまり知らなかったが、同僚がツイッターでやり取りをしていて、結果的に連絡手段の要になったことを目の当たりにした)。

初期の地震報道だけでは死者情報がほとんどなく安堵していたのも束の間で、津波の状況がリアルタイムで報道され、ニュース速報のテロップで「海岸線で、1000~2000人の遺体が・・・」という情報が次々と目に入ってきた。

その次の日の3月12日には、防災に関するシンポジウムに出席した。立ち上がる研究所の研究テーマの柱のひとつに「防災教育」を掲げていて、その準備の一環でもともと参加する予定だったが、「3・11」の衝撃に、頭がぼーっとしていたことを今でも覚えている。

今日も、TVで当時の映像が流れるが、あの「無限」に死者数が増えていくニュース速報のテロップを思い出すとちょっと胸が苦しくなるので、もうTVをつけるのをやめた。

 

私は、3・11を実際には体験していない。死者の現状も「ニュースのテロップ」でしか知らない。「当事者かどうか」という観点でいえば、周辺の立場でしかない。しかし「当事者性」という意識をもつことからは目をそむけたくなかった。2003年の福岡地震を経験したことも根っこにあったように思う。2011年4月に研究所が発足して、震災関連のシンポを企画運営する機会があったが、しかしそれは自分の無力さを自覚する作業でもあった。

 

2015年の3月、沖縄へいく直前に、福岡の研究仲間たちと東北に行った。せめて現場に入る、ということしか考えられなかった。

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津波の被害をうけた石巻市大川小学校

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相馬市の碑文

2016年4月、熊本大地震で、多くの知り合いが地震の影響をうけた。そのとき私は沖縄にいて実際に体験することはなかったが、LINEやメールを通じて、家族や研究仲間の安否について情報を共有した。

 

自分が無力であることからいまだ解放されないが、「復興」とは何か、ということも含めて、いろいろと考えるべきことがある。「死者1000~2000人」というあのテロップの記憶も、こうしたメモリアルなときでないと想起することがなくなってきたが、戦争や空襲を研究する者としても、その重みだけは忘れてはいけない、と考えた次第である。