We shall overcome ☆沖縄からのグローカルヒストリー☆

琉球大学西洋近現代史研究室を担当する池上大祐の教育・研究活動ブログです。アメリカと太平洋島嶼地域との関係について、(脱)・(新)・(核の)植民地主義の観点から研究しています。また、沖縄で西洋史やグローカルヒストリーを学ぶ意義・方法について歴史教育実践を通じて追求していく予定です。なお本ブログの記事は、あくまでわたくし個人の意見であり、所属先の方針や考えを代表するものではありません。

西洋史ゼミ共同研究2018年ー宮古島における「久松五勇士」について

今年も、西洋史近現代史ゼミでは、学生たちによる共同研究「沖縄のなかの世界史発掘プロジェクト」を行います。今年のテーマは、宮古島の「久松五勇士」です。

1905年の日露戦争時に、バルチック艦隊を発見した宮古島久松の5人漁師たちがその情報を電信基地のある石垣島に伝えるために、サバニ(小舟)で「勇敢」に向かったという事実が、1930年代、1960年代、1980年代に宮古・沖縄・日本でどう語られてきたのかを主軸に研究していく予定です。

1930年代の学校教育にみられる典型的な「愛国美談」の一例としても位置付けられ、2年前の共同研究テーマである「宮古島民ドイツ商船員の救助の博愛美談化」とも連動する興味深いテーマになりそうです。沖縄出身の学生たちのなかでも、昔聞いたことがある・・・という程度の認知度でしかなく、教員を目指すゼミ生にとっても重要な教材研究の一環にもなるのではないかと思っています。

世界史とつなぐための方法としては、19・20世紀転換期におけるグローバルな電信網の構築や日露関係史をも紐解いてみたいと考えているところです(どうつながるかはまだ先が読めていませんが・・・)。

今日のゼミでは、琉大図書館で文献リサーチを行いました。今後はビブリオを作成したり、基本となる論文を読んだりしながら、内容を詰めていきます。9月にはゼミ生たちと宮古島に行き、実際に現場の空気を吸いながら、フィールワークを行う予定です。

今年こそ台風が来ないことを祈っています・・・。

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宮古島にはトゥクトゥクのレンタルもあって普通免許で運転可能なようなので、せっかくなので乗ってみたいですね。こういうレジャー要素も入れながら、メリハリのある共同研究活動になればと思っています。

済州島滞在記

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5月11日に済州大学での研究報告を無事終えて、昨日12日は、済州大学の先生ご夫妻のご好意で、済州島西部の旧日本軍関連戦跡にご案内していただきました。本当にありがたかったです。

西南部区域には1930年代から日本軍飛行場(「アルトゥル飛行場)が建設され、日中戦争時の南京への渡洋爆撃拠点のひとつとして利用されたという歴史がある場所です。

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周辺には多くの掩体壕が残存しており、そのうちのひとつには、ゼロ戦を模した芸術作品も展示されて、「過去に学ぶ」という共通した内容のメッセージ入りタグが括られていました。この付近には日本軍通信施設も残っていました。

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また、このあたりでは「四・三事件」による住民虐殺も行われた場所でその鎮魂碑も建立されていました。重い歴史が埋め込まれています。

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次に訪問したのは、海岸線に8箇所ほどあるという「陣地洞窟」です。大戦末期に日本軍が武器等の物資を貯蔵するために緊急に作ったもので完成を見ずに敗戦となったとのことです。

以下の写真は南西端の陣地洞窟。ドラマ「チャングム」のロケ地にもなった場所です。残念ながら、最近になって洞窟は立ち入り禁止になったようで中までは見れませんでした。

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以下3枚の写真は少し北上した西端部付近の陣地洞窟に向けて無線で命令を発信する司令部跡です。

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この辺りはイカで有名な漁港が近くにあり、遊歩道も整備されたトレッキングコースとしても観光客に人気の場所のようですが、ここにもひっそりと、戦争の傷跡が残っていました。

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軍事基地あるいは戦争を小さな島から考察するという視点は、おとといの学術研究会「東アジアにおける島、軍事基地、コモンズ」でも共有されていたテーマで、この済州島滞在中に私は、多くのことを学べました。一見、本研究会は、私の専門分野のアメリカ史研究とは無関係に思えるかもしれませんが、「島/地方/緩衝地域に生きる」という現実や問題意識に裏打ちされた、ほかの皆さんの研究活動に私は心から共感しました。太平洋島嶼現代史家という自己認識をはやく打ち立てて、私にとっての沖縄での現代史研究をもっと洗練させていきたいと思います。

 

 

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済州島での食事、どれも美味しゅうございました!

以下は、済州大学学食ランチと、昨日の夕飯時にドキドキしながら行った地元の麺料理屋の麺(料理名は忘れました…)。

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今から帰国です。ルートは済州島→釜山→福岡→沖縄。乗り継ぎ時間がいびつで、沖縄到着は午後10時過ぎ。着いたら、明日の講義準備です…。

「地域と世界史をつなぐー琉球・沖縄の視点からー」(研究会企画)

今夏までに新しく設立される予定の研究会の6月例会企画立案を、今年の3月ごろにおおせつかり、ずっと暗躍しておりました。このたび、プログラムが完成!

「地域と世界史をつなぐー琉球・沖縄の視点からー」

と題する企画です。

歴史実践―教育・研究・展示ーを最前線で日々に担ってらっしゃる3名の方々にご登壇いただき、地域が持つ豊かな文化資源、歴史資源をどのように実践で活かし、来たる「歴史総合」なる新設科目も視野にいれながら、どう「世界史」とつなげていけるのか、という点をみなさんで議論しながら、共有していきたいと思っております。

 

私が関わっている「地域から考える世界史」プロジェクトや高大連携歴史教育研究会でも、ここでの議論をしっかりと共有し、新しい歴史教育のあり方を模索していければと考えているところです。

※詳細は下記にて(PDF版のダウンロードは下記URLへ)

琉球・沖縄史研究会(仮称)6月例会企画完成版.pdf - Google ドライブ

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2018年度☆西洋近現代史ゼミ開始!

今日から、西洋近現代史ゼミがはじまりました。

3名の新3年次が仲間入りです。着任時(2015年)の4年次を第1期とすると、いわゆる第5期メンバーですね。なんだかんだでここまで重ねてきました。

入学年度はバラバラなメンバーですが、共同研究を含めたゼミ活動を通じて、彼らなりの「コミュニティ/居場所」をつくってほしいと思っています。

 

現時点での彼らの問題関心は以下の通りです。

・アメリカにおける学校教育と日系移民(あるいは黒人)との関係

モルモン教を軸としたアメリカ宗教史(19世紀の第二次覚醒の文脈か、戦後沖縄におけるキリスト教実践活動の文脈か)

・ジェノサイドの歴史的起源(地域は、ルアンダユーゴスラヴィア

色々と可能性をさぐる段階なので、変わるかもしれませんが、大まかにはこのような感じです。文献リスト⇒概説⇒研究史の順番で、整理してもらおうと考えているところです。

 

共同研究も、今年はどうするのか(宮古島石垣島⇒?)、色々と議論していきたいと思います。今年こそ、台風と重ならないようにしたいところです・・・。

 

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原稿締切に追われ過ぎて、「できる範囲内でいいや」と割り切った考え方をもたないと身が持たない状況です。科研を含む3つのファンド付きプロジェクトの最終年度がすべて今年度・・・。4月末に2つ、5月7日に1つ、5月21日に1つ、6月半ばに1つはマスト。あと自分の自由意志で、5月末、7月初旬、7月中旬に論文(専門的な雑誌2、学際的な雑誌1)を投稿する予定。本当はじっくり煮詰めて全国誌で勝負したいけど、諸事情で今年は「数」で勝負。疲弊する国立大学の現状に合わせて、成果を出さざるを得ないので・・・。

ただ、私のような凡人は、とにかく書きまくることが大事かなとも思っている次第。

所属名の変更

いよいよ新年度です。

学部改組に伴い、今年から私の所属が「国際地域創造学部 地域文化科学プログラム」になりました。でも特段、やるべきことは変わりません。今年も西洋史研究室をしっかりと盛り上げて、学びの場を作っていけたらと思います。

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写真は、研究室から臨める宜野湾。

”風に向かって立つライオン”

今日(昨日)は、琉球大学の卒業式でした。

卒業生たちが手に持っているのは、卒論本文・卒論執筆体験記・ゼミ活動紹介・卒業生へのメッセージ等を収録した『西洋史ゼミ論集』第3号です。頑張って編集して、今日お渡しすることができました(&ゼミ生には、名前入りの万年筆も)。

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論集で書いたことですが、卒業生には「風に向かって立つライオン」(さだまさしの歌から)であってほしい、ということを伝えました。好きなテーマを選び、洋書を読み込み、追求してきた卒論執筆という営みが、「現在(いま)を生きることに思い上がる」ことなく、過去・現在・未来をつなごうとする深みある生き方をきっと支えてくれるから、とー。

 

下の写真は、ゼミ生からいただいたお花。

自宅の部屋がちょっと明るくなった気がします。

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偶然持っていた竹製の花入れで、部屋に飾ってみました。

 

「最後になりましたが、あなた(たち)の幸福を心から遠くからいつも祈っています。おめでとう、さようなら」

 

 

3・11

7年前の3・11は、母校である福岡大学で、翌4月から発足する予定の研究所(福岡・東アジア・地域共生研究所)の立ち上げ準備業務を担当していたときであった。午後3時過ぎ頃のネットニュースで、茨城県沖で地震発生→東北で地震発生と2段階で報道を見た記憶がある。その頃東京出張中の方々(先生や後輩)の安否確認をなんとかメールでおこなった(そのとき、私はまだツイッターというものをあまり知らなかったが、同僚がツイッターでやり取りをしていて、結果的に連絡手段の要になったことを目の当たりにした)。

初期の地震報道だけでは死者情報がほとんどなく安堵していたのも束の間で、津波の状況がリアルタイムで報道され、ニュース速報のテロップで「海岸線で、1000~2000人の遺体が・・・」という情報が次々と目に入ってきた。

その次の日の3月12日には、防災に関するシンポジウムに出席した。立ち上がる研究所の研究テーマの柱のひとつに「防災教育」を掲げていて、その準備の一環でもともと参加する予定だったが、「3・11」の衝撃に、頭がぼーっとしていたことを今でも覚えている。

今日も、TVで当時の映像が流れるが、あの「無限」に死者数が増えていくニュース速報のテロップを思い出すとちょっと胸が苦しくなるので、もうTVをつけるのをやめた。

 

私は、3・11を実際には体験していない。死者の現状も「ニュースのテロップ」でしか知らない。「当事者かどうか」という観点でいえば、周辺の立場でしかない。しかし「当事者性」という意識をもつことからは目をそむけたくなかった。2003年の福岡地震を経験したことも根っこにあったように思う。2011年4月に研究所が発足して、震災関連のシンポを企画運営する機会があったが、しかしそれは自分の無力さを自覚する作業でもあった。

 

2015年の3月、沖縄へいく直前に、福岡の研究仲間たちと東北に行った。せめて現場に入る、ということしか考えられなかった。

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津波の被害をうけた石巻市大川小学校

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相馬市の碑文

2016年4月、熊本大地震で、多くの知り合いが地震の影響をうけた。そのとき私は沖縄にいて実際に体験することはなかったが、LINEやメールを通じて、家族や研究仲間の安否について情報を共有した。

 

自分が無力であることからいまだ解放されないが、「復興」とは何か、ということも含めて、いろいろと考えるべきことがある。「死者1000~2000人」というあのテロップの記憶も、こうしたメモリアルなときでないと想起することがなくなってきたが、戦争や空襲を研究する者としても、その重みだけは忘れてはいけない、と考えた次第である。